LOVE &・・・

自分がこの世で見たいと願う変化に自分自身が”生る”




新・人生文化「 美しさの人生様式( ペルラ・マニエラ )”perla maniera” 」の新時代!!



備忘録 : 生きるためのモダンテクニック  ラブトニック


・・・ ”心”というものは、人間らしく振る舞わせる可能の約束をいい、”授与”ともいう。

心を受け継ぎ”愛”があり、”強い心”として、存在を肯定するなどといった状態に留まらず、

もっと深く理解と共感をもち、一歩踏み込んで、実際に人のために具体的な行動を開始する。

他者に対する隔てのなさを強調し、ときには恩愛とも、ときには絆とも、着するところをもち、

脳と心のカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)がなければ、我々人間の最も根源的な”渇き”の

その衝動が人間存在の奥底に潜在しつつ欲望として”無意識の心”を感情と意志にするのである。

”愛は脳を育む”が、”心で脳は変わらない、脳で心は変えられない”、”心泣かすな頭冷やせ”。

”無意識の心”というものは、心が態度をとっていくことをいい、”決まる場”ともいう。・・・


心は脳髄にあるかどうかはわからない”脳の余裕”と”心の余地”に生る(なる)生り(なり)の人。

その人たるものは”自然人”として、生まれてから死ぬまで等しく完全な”心の力”を認められ、

心の動きを心で観る“愛”に”心のイメージ”をもち、その意味や価値を”愛にもまして”つくり出す。

”愛”に主体的な個々が、理性的な判断を前提に、”愛”それぞれの適切な特徴を適切に扱い、

常に別の”愛”の可能性がないかを考え、誤謬やカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)に陥らず。

単なる気持や気分の思い込みに惑わされる”人間総身に知が図りかね”は、愚かな危ない心である。

脳と心をどうにか正しく知ることをしようと、脳と心について何故か誤った考え方を抱きつつ、

脳と心についての考え方が正しいかどうか確かめる方法を探し求め続けようとする”デキる人”。


コミュニケーションをも伴い、元気づけ明るくするもの ”love tonic” ラブトニックとは、

ある”強い心”を中心に他のそれぞれにトーンが秩序づけられる調和的な関係にあり、  

緊張のなかにも”抑揚の強勢”があって、完全な、あるいは見込みの、その有為に特徴づけられ、

単なる歓喜のトーンではなく、物事や出来事と人にある”強い心”そのものが中心となって、

”強い心”をより引き立て力付け、更なる自信や安心を助長させるものなのである。

生る(なる)生り(なり)に久しくそれはないものであって、期待や希望などに関わらず、

訪れるものではなく、必ずといってもいいほど、生じ起こるべくして生じ起こるものであり、

もとより、この様にして少なくとも今日的な意味を帯びてる現実に直結するものなのである。


期待充足的に行為ができるような位置を我々に割り当てられているということは、

そもそも、少しづつでも満ちていくように”補い”、徐々に満たしていくということであって、

すなわち、”充足”というものは、”力を添えた更なる助長”ともいえるのであり、

足りないものがなく十分に備わっている満ち足りた充実などは少なくともこの世には存在せず、

行為が伴わない満足に充実はなく、”傾向を著しくさせる”充足に補う行為に満足がある。

もとより本能行動に無駄が存在する余裕も余地も無いのだが脳の思考で運命を決めようと、

”心を奪われる”ということは”心に嵌る”ということであり、人生全体として見れば、おおむね、

雑多の内的且つ外的な情報を無秩序に受け入れる余裕と余地を得て、”とある位置”を見失う。


・・・ そこで問いを煮詰めるならば、心は何処か、カテゴリーミステイク(範疇の錯誤)。

脳で愛はわからない、愛があっても脳はわからない、愛があれば心がわかる。

愛は”心の強さ”であり、愛に強さがあるわけではなく、愛を計算する脳の強さは愛に劣る。

脳の余裕と心の余地の意味さえわかれば、”心を発する”という姿勢のトレーニングは、

”声を発する”というボイストレーニングにつながるのだが、しかしその逆もいえ、

目に見えて脳だけのトレーニングになり、”人間総身に知が図りかね”は”心に囚われ”の身、

単なる気持や気分の思い込みに惑わされ、心に抱く自我の主観的な感情の動きになり、

心の態度がとれず決まる場でも決まらない、”心泣かすな頭冷やせ”ということである。・・・



死ぬ時が来るならば、その時は自分の”最高潮”に人生最大の感動を覚えることができればいい。

 

   
 

   
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