自分の好都合を攻めよ

自分がこの世で見たいと願う変化に自分自身が”生る”




新・人生文化「 美しさの人生様式( ペルラ・マニエラ )”perla maniera” 」の新時代!!



備忘録 : 生きるためのモダンテクニック  イデオロギー


・・・ 社会の”意思決定”を行い、これを実現するということは、社会としての”意志”であり、

秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う、その営みにある。

”ロマン”というものは、かつて政治ないし政治家に唱えられたことをいい、”曖昧”ともいう。

何の目的または目標を以てして政治的なのか、もしくは政治家的なのか。

社会に対して全体的な影響を及ぼすのに、その目的または目標とは何か。

良い社会の実現を試みるとして、そもそも社会がどのような状態であることが良い状態なのか。

政治は、社会や社会に生きる一人ひとりの人にとって、そもそも何が重要なことなのか。

様々な人々の”意志”というものは、集団の意志としていくことをいい、”選ぶ”ともいう。・・・


”認識と成果”における観念形態(観念体系)である ”Ideologie” イデオロギーとは、

我々が意識の対象についてもつ主観的な像や表象でもあって、

具体的なものが無くても心に残るもの、あるいは思念など、

何かあるものに関する一まとまりの意識内容としては”意識形態”(意識体系)として、

世界や人間について、そして遍く物事に関して、

我々が抱く様々な主観的考えである観念や”信念”などであり、

また、考えと行動や人生のその生き方など根底的に構えている観念や”信条”などでもあり、

これらすべてに関わる意見や傾向を指すこともある。


そこで、政治や宗教などにおける観念とそれら意味合いなど、

あるいは社会に支配的集団によって提示される観念など、それらは置いておいて、

開かれた世界観のような物事に対する包括的な観念などされているもの、

日常生活における哲学的根拠などとされているもの、そのようなイデオロギーから離れ、

”認識と成果”というもの問いてみていくならば、”見ている”と”見えている”の違いがわかる。

いわゆる”成果認識”とするならば、成果を”明らか”にしてそれを認識しながら、

その物事に取り組むことでの成長の”見込み”であり、いわば自己成長であって、

見込める”期待の安心”と”期待の信頼”ということになるのであるが。


我々のありとあらゆる日常的、あるいは知的活動、その根源でもあるこの認識という行為は、

信号の感覚をもとに構成された情報としての知覚が意味付けされ意識に上る認識ではあるが、

いわゆる知性的能力や知識というものが知覚の意味付けプロセスに介在しているので、

同じ対象でも個々が同じ認識をもっているとは限らず、すなわち認識のそれだけではわからず、

誤謬やカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)などの行為によって客観的に確認できるのである。

この知覚しているということは、認識しているということを意味するものではなく、

知と合理的なエピステモロジーとして、人が理解できる限界に、

”見ている”と””見えている”というその違いがわかる、”デキる人”。


この認識と知識とほぼ同義で、主体または主観が対象を明確に把握することをいうのであるが、

知識はその認識によって得られた成果であって、認識は成果のみならず、

対象を把握するに至る働きの作用でもあり、直観的/感性的/理性的/知性的な認識が成立ちは、

感性/直観/理性/知性(悟性)など主観または精神が機能する働きにある。

その認識の成果として得られる知識、正当化される観念や”信念”として真なのであろうか。

認識主体として何らかを”信じる”ためのこの正当化をもつのかどうかは、

認識主体の何かしら基礎として信念めいたものやそれに類似した何かしら心的な状態など、

これらに最終的には依拠するのかもしれないのであろうか。


これら観念や”信念”ないし心的状態は、他の信念や心的状態を正当化するものでありながら、

それら自体は他の信念や心的状態によっては正当化されなければ、

そもそも、それは基礎的であり、認識主体の何かしら基礎として信念めいたものや、

それに類似した何かしら心的な状態にしかすぎないことになるのであろうか。

あるいは、認識主体がもつ観念や”信念”などが、他と互いに調和性・整合性があるのだとすれば、

その個々の観念や”信念”は正当化されるのだろうか。

認識主体が何かしら信じるための正当化をもつかどうかにおいて、

認識主体のみが反省によってそアクセスすることができものだけなら判断・決定しずらいなど、

”認識”の成果として得られる知識、正当化される観念や”信念”に真なるものがあるのだろうか。


認識の正当性をはじめ、知識に関する信頼性、観念や”信念”についての真偽性。

そこには決定的理由は存在しないのであり、

偏った考え方でもあるのかもしれないし、何らかの先入観をも含むのかもしれないし、

理念の内容それ自体よりもその理念が拡大しようとしている立場や、

その理念の環境状況に対する評価の仕方によって判断されのかもしれないのである。

理念がある種の問題解決において本質を誤った見方をしていることもあり得ることであり、

何らかの立場をその環境において主張して拡大しようとするようなこともあるのだろうし、

その意味においても何かしら価値観対立を前提としているのかもしれないのである。


その理念がある種の問題解決において本質を誤った見方をしていることもあれば、

自己に都合のいいように改変(改釈)していることもあり、

そういった意味において、”期待の安心”と”期待の信頼”は危険過ぎるのではなかろうか。

自分が”生きるため”での一筋の道としてのルールを自らつくり保存して改定する活動にあって、

”明らか”に示されられる”認識と出発”、その成果を”明らか”にしてそれを認識しながら、

期待充足的に行為ができるように、その物事に取り組むことで見込まれる自己成長

考えられるうちで、もっとも極まる最高の状態が見込まれる生る(なる)生り(なり)に、

自分の好都合に準備”ができていると見るならば、”期待の安心”と”期待の信頼”は用意しない。


・・・ そこで問いを煮詰めるならば、観念や”信念”などとは関係なく、

客観的に体系化(形態化)されているものとして、目的合理性において絶対的な根拠をもつ

その体系(形態)が存在しているとしても、そもそも、ありとあらゆる行為の価値は、

先ずは目的合理性において、正当なものであるかどうかの判断抜きには成立せず、

観念や”信念”などが何らかの制約や規定を環境に確立するときに、

”目的合理性に合致”しているかどうかということは大きな影響をもつものなのである。

このような目的合理性がそれ自体で支配的ともなる観念や”信念”となれば、人間性は否定され、

人間行動が目的合理性に適合的なように物象化されていく、”危険スギる人”。・・・



死ぬ時が来るならば、その時は自分の”最高潮”に人生最大の感動を覚えることができればいい。

 

   
 

   
スポンサーサイト



コメント

コメント(0)
コメント投稿
非公開コメント