自分の差を示せ

自分がこの世で見たいと願う変化に自分自身が”生る”




新・人生文化「 美しさの人生様式( ペルラ・マニエラ )”perla maniera” 」の新時代!!



備忘録 : 生きるためのモダンテクニック  コミュニケーション


・・・ ”身つから手つから”ということは、自ら頭と心を用いて身を以て手に以てのことである。

”差”というものは、 違う(たがう)隔たりに”ひらき”をつけていくことをいい、”変化”ともいう。

何の差を以てして自主的になのか、自発的になのか、主体として自ら当たり前なのに差は何か。

の差を以てして自分らしさなのか、有りの儘なのか、個体として自ら当然なのに差は何か。

デキる者は、自ら”差”を以て(もちて)自ら”差”を示し自ら”変化”していく。

個体差ではない”差”として、一致をみないで変化するので”差異”、区分するのは”差別”の別物。

“自ら以て相応しい”とするレリバントなものとして、示差・弁別的なものである。

”選好”というものは、他より有るものを好んでいくということをいい、”効用”ともいう。・・・


もとより”差”というものは、人生に生きるための”一筋の道”に”変化”としてあり、

我々は、選好関係において”差”として他より有るものを好んでいく”選好”として、

期待の効用(期待効用)の大きさによって決定される意思決定にある。

自ら”差”を以て(もちて)自ら”差”を示して自ら”変化”していくということは、

逆に、自分がどのように狙いをつけ”差し当てる”か(差し当てられるか)ということであり、

期待充足的に行為ができるような期待の効用(期待効用)の要素とその大きさ如何にある。

知覚/感情/思考の伝達であるコミュニケーション ”communication 連関の中における、

いわばレリバント ”relevant” なものに見なされるのが、この”差”だというわけである。


今日的な意味を帯びている現実の問題に直結する検討中の課題など、

それらに実質的に関係・関連(関連性)があるレリバントなものとして、

そもそも基本的に”その人にとって意味がある”レリバントなものとして、

そして興味・関心があるレリバントなものとして、また自分に合うレリバントなものとして、

すなわち自分が狙いをつけ”差し当てる”ものにあるその”差を示す”レリバントなものとして、

自分の”変化の差異を差し示す”ことができるレリバントなものとして示差的・弁別的なもの。 

選好と効用のアプローチは人生主体の指向や行動様式表す上での最も基本的な考え方であり、

合理的な選好をもつ合理的な人生主体は直面する多数の選択肢の中から選んで”差”とする。


”差”として他より有るものを好んでいく”選好”において、

選好が堂々巡りなるか、あるいは誤謬やカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)に陥るか、

期待の効用(期待効用)の大きさによって決定される意思決定なのだとしても、

選り好みなどしていては決定疲れの意思に自己消耗なのである。

また、一筋の煙みたいな気持や気分など感情が一筋光ではいかなくもない範疇での選好ならば、

単なる気持や気分の思い込みに惑わされる”人間総身に知が図りかね”は愚かでもあり、

心理的アプローチによって自主的な自分らしさを、願望の効力(願望効力)の多さによって、

単に決める主体の選択は、”心理的な好ましさ”程度を表しているだけにすぎないのである。


そもそも、選好が堂々巡りなるか、あるいはそのようになりがちになるかであって、

“自分のイメージというものをもちながら、”差”にその意味や価値を引き出すために、

主体的であるそれには、個としての認識と判断をすることを前提に、適切な特徴を適切に扱い、

常に別の可能性がないかを考え、誤謬に陥ることなく、合理的な判断が求められる。

現実に人は論理的整合性を欠き”差し当てる”が、それは何らかの様式や法則に基づいており、

合理的な選好をもつ合理的な人生主体は、直面する多数の選択肢の中から選んで”差”とする。

選好の完備性/選好の独立性/選好の推移性の中での不確実性に伴う意志決定において、

主体としての”期待の効用値”(期待効用)の大きさにより決定される意志決定である。


選好と選好関係を表す期待効用は、人生主体にとって選択の主観的な好ましさを表しており、

選好と効用のアプローチは人生主体の指向や行動様式表す上での最も基本的な考え方として、

すべては”合理的な認識の精神”に基づく”合理的思考能力”によって確立されていく中での、

個体差ではない”差”として選択の主観的な好ましさにある。

狙いをつけ”差し当てる”一致をみないで変化する”差異”は、

現実には個の人生世界の差異の総体である世界人生とのつながりにおいてのものであり、

生る(なる)生り(なり)の”差”は、

デキる人の秘訣として”差の本性”たるものが引き渡す”差の感性”なのかもしれない。


ヒント然として、人間の”弱い”ところ、人として自分の”弱い”ところ、

そのそれぞれを知り尽くし、あるいは知り尽くされないとしても、

この”弱さ”というものがあるとして、物事の良きにつけ悪しきにつけ、

常に絶えずその”弱さ”を以て本質を見分け鑑識することと、

この”弱さ”というものを知っているからこそ何らかの行為に及ぶことを知り、

その行為自体をも含めて種類や性質など、

常に絶えずその”弱さ”を以て本質を見分け識別することと、

そして常に絶えずそのような考え方(捉え方)をもっていることである。


・・・ そこで問いを煮詰めるならば、無自覚に働く直感的で自動的な認知にそのように物事を

考えて(捉えて)見張り監視し常に絶えずその”弱さ”を以て本質を見分け鑑識・識別することで、

イメージされるそこに疑問を感じ取る感受性と慎重な考えを加え、

気にも留めない差異的且つ誤謬的な情報に対する殆ど無自覚的な観察として、

取り立てて目的もなく頭と心の内と外で生じ起きている変化を逐次に知るために監視し見張り、

その状況の様々な面を常に絶えず鑑識・鑑別し評価・判断しているところに、”差”は発現する。

問いの詰めならば、このように人それぞれの”差の本性”として現れ出るのであり、

”差の本性”を以て自ら差を示し自ら変化する”秘訣”は、デキる人の”差の感性”として。・・・



死ぬ時が来るならば、その時は自分の”最高潮”に人生最大の感動を覚えることができればいい。

 
     
     
 

   
スポンサーサイト



コメント

コメント(0)
コメント投稿
非公開コメント